魚を釣ったら庶民は島流し、武士は切腹!? 知られざる日本の釣りの歴史

 日本の対象魚の多様さ、それらに合わせた釣法技術の確立、釣具の進化などから、世界的にみて日本人の釣りは屈指の洗練度を誇るとも言われている。

 四方を海に囲まれた日本で当然のように思われる庶民の娯楽「釣り」は、しかし実のところ歴史としてはそれほど古くなく、世の中に「釣り」が広まったのは江戸時代になってからだという。

 長辻象平氏の『江戸釣百物語』(河出書房新社)は、日本の「釣り文化」が開花した江戸時代の釣りにまつわる怪談や逸話、釣りに魅せられた武士や殿様たちのエピソードを交え、日本の「釣り文化」の源を知ることができる一冊だ。

 漁師以外の庶民に「釣り」が親しまれるのに江戸時代まで時を要したのは、それまで殺生を戒める仏の教えに背くといった仏教思想が根強かったからにほかならない。室町時代には公家が釣りをしているのを咎めた僧がいたというほど、仏教の威厳が強かったのだ。

 しかし天下泰平と言われる江戸時代になると、仏教思想からも解放され、特に江戸湾という身近に釣りができる環境が整っていた江戸で、庶民の間で「釣り」は花開いていく。

 また道具の進化もあげられる。それまで魚がバレやすく強度も不十分な絹糸や白馬の尾などを釣り糸に使用していたために、技術のある漁師など限られた人でしか魚を釣ることは難しかったが、“テグス”と呼ばれる丈夫で透明な釣り糸が中国から伝わったことで、庶民でも魚を釣りやすくなった。つまり釣りのハードルが下がったのである。

 なかでも寛文7年(1667年)生まれで、忠臣蔵の敵役である吉良上野介の娘婿であった大旗本、津軽采女 政兕(うねめまさたけ)は、武士階級であるにもかかわらず立身出世を望まず、生涯江戸湾で釣りにのめり込んだ。その釣りの経験をもとにした『何羨録(かせんろく)』は、考案者の武士の名前が付けられた三十数種の釣針図が掲載されているなど、日本最古の釣りの書物と言われる。

 江戸ではないが、現在の山形県鶴岡市に城を構えていた庄内藩では釣りと武芸は同等のものと考えられ、「勝負はいかがでござった?」というように釣果を勝負に喩えていたという。また名刀と同じように釣り竿にも執着し、「名竿(かん)は名刀より得がたし」という言葉があったほど。このように、釣りを嗜むことは江戸時代に武士の間から始まったという。

 しかし、五代将軍徳川綱吉の時代は「生類憐れみの令」によって「釣りと釣り船の禁止令」が出され、釣りの暗黒時代が訪れた。魚を釣っただけで、庶民は島流し、武士なら切腹ものであったという。それでも尾張藩62万石の朝日文左衛門重章という武士は公然と将軍の令を無視して釣りをしていたというから、一度釣りの楽しさを知ってしまえば、武士とてその魅力には抗えなかったのだろう。

 また当時、武士の間でもっともありがたがられたのが鯛(タイ)だった。現在も正月など祝事の際には鯛が食卓に上るが、実は江戸時代になるまで、縁起物の魚は鯉(コイ)だったという。しかし鯛は名前が「めでたい」に通じ、また姿かたちが美しい。そしてなにより尾頭付きの鯛は身を切られることを嫌った武家の間で喜ばれたという。

 そして当然ながら庶民にも遊びとしての釣りが広まり、男女問わず様々な人々が水辺で釣り糸を垂らしはじめた。江戸前の釣りとして知られ、江戸湾の干潟で脚立に座ってアオギスを狙った「脚立釣り」はこの江戸時代に始まったとされる。

 ちなみに江戸の風物詩のひとつとなったこの「脚立釣り」は昭和30年代まで楽しまれていたが東京湾の開発によって干潟がなくなり姿を消した。

 また本書には、釣りや魚にまつわる怪談や小話などが数多く紹介されており、江戸時代に釣りが文化として市井に深く浸透していたことを実感できる。

 釣りの楽しさに魅せられた武士たちの、その階級的威厳を保つような都合のよい(?)建前で公然と釣りを楽しむ姿に強かさを感じ、身近な水辺で釣り糸を垂れ、天下泰平の世を満喫していた庶民たちの姿から、読後はとても清々しい気持ちにさせられる。

文=すずきたけし

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