南アルプスの自然環境保全をテーマにした静岡市のリニア環境影響評価協議会が2024年8月26日、開かれた。
会議では、元副知事で静岡県のリニア問題責任者だった難波喬司・静岡市長が、大井川源流部の在来種で、絶滅危惧種ヤマトイワナ(サケ目サケ科イワナ属)への影響に対する「代償措置」として、ヤマトイワナの‟サンクチュアリ(聖域、保護区)”設置をJR東海に提案するよう求めた。
現在、ヤマトイワナはリニア工事の影響範囲にはほとんど生息していない。ヤマトイワナが生息しなくなったのは、自然環境の変化だけでなく、人為的な理由が大きい。
さらに減少していくヤマトイワナ
静岡市はヤマトイワナの減少を電源開発だけではなく、日本固有種のニッコウイワナの放流によって、交雑が進んだことで、在来のヤマトイワナが著しく減少したと分析している。
1970年代から、地元の井川漁協は、養殖した大量のニッコウイワナを大井川上流部に放流した。県水産課が補助金で支援し、指導した。
ニッコウイワナ放流は、渓流釣りの誘致のためであり、地域の生活の糧でもある。釣り人らには、ヤマトイワナもニッコウイワナも食べれば、ほぼ同じ味であり、ニッコウイワナの放流は大歓迎された。
放流とともに、繁殖力の強いニッコウイワナが瞬く間に増えて、ヤマトイワナとの交雑も進み、純粋のヤマトイワナはすみかを追われた。
井川漁協は2002年から、ヤマトイワナの養殖にも乗り出して、16万粒の受精卵を放流したが、結局は失敗、ヤマトイワナの養殖事業を断念した。
今回の26日の会議で、静岡市は、ヤマトイワナの生息域がさらに減少していくと予想している。
この結果、リニア工事によるヤマトイワナの生息数の減少を上回るかたちで、交雑の進んでいないと予測される場所で、代償措置を実施することをJR東海に求めたのだ。
ただ、実際には、ヤマトイワナはすでにリニア工事の影響区域ではほとんど生息していない。「代償措置」を求めたのは、まさに議論を収束させるための方便でしかない。
「生物多様性」の観点からは疑問が多い
そもそもJR東海は、2021年10月22日開催の県生物多様性専門部会で、「代償措置」としてヤマトイワナの‟聖域”設置を提案しているのだ。
ヤマトイワナの生息する沢で個体数の保全を図った上で、ヤマトイワナを増やすために「人工産卵床の整備」を行い、ニッコウイワナ、交雑個体を捕獲して、別の沢に移植するなどのイメージを想定した。
当時の生物多様性専門部会では、JR東海の「代償措置」は相手にされなかった。淡水魚を専門とする板井隆彦部会長が「人工産卵床の整備は本当に効果があるのか。いろいろ疑問があり、産卵床整備はお奨めできない」と厳しく指摘した。
また、難波副知事(当時)が「移植しないといけないならば工事を止めるか、影響が出そうであれば工法を変えないといけない」などと否定的な意見を投げ掛けた。ヤマトイワナの‟聖域”設置はその後議論されることなく、お蔵入りしてしまった。
それから3年近くたって、JR東海の提案したヤマトイワナの‟聖域”設置がようやく日の目を見るかもしれない。
しかし、「生物多様性」の視点からは疑問点が多い。
ヤマトイワナを絶滅に追い込んだのは、人間の営む生活であり、いまさら過去の状態に戻すことは不可能である。
ニッコウイワナを放流したのは、ヤマトイワナの減少に伴い、釣り人誘致のために地元の漁協が積極的に行った。それ以前に河川改修だけでなく、多数の電力ダムが建設され、ヤマトイワナの好む自然環境を改変してしまった。
また「生物多様性」は米国のBIO・DIVERSITY(バイオ・ダイバーシティ)からの造語である。米国の生物学者たちのそれぞれの意見の違いもあり、はっきりとした定義は存在しない。
リニア担当の自然保護課だけでは議論は進まない
環境省は2002年、バイオ・ダイバーシティ条約を受けるかたちで「生物多様性国家戦略」の国内計画を策定し、閣議決定している。
環境省独自の環境保全策だが、当然、ヤマトイワナなど絶滅危惧種だけの保全にとどまらない。
ニッコウイワナも交雑種も外来種ではない。両者とも日本固有種である。
つまり、生物多様性では、ヤマトイワナを保全するためだけに、ニッコウイワナや交雑種を駆逐してしまうという考えは生まれない。
生きものにはすさまじい多様性があるからだ。
そもそも移入種が加わり、交雑種が生まれる生態系こそ多様性が増したと見るべきなのだ。人間の世界を見れば、さまざまな混血種が生まれ、共存している。それこそが、バイオ・ダイバーシティそのものである。
自然環境は人間の目には同じように見えても日々変わっている。
JR東海は行政の意見に従って、過去の環境を取り戻すような取り繕いの対応策を提案させられているに過ぎない。
バイオ・ダイバーシティとは何かを議論すれば、現在の「代償措置」の考え方に疑問が生まれてくるはずである。
川勝知事という楔(くさび)が外れたことで、難波市長は議論の収束を図るために、もともと議論のあった「ヤマトイワナの‟聖域”設置」を持ち出したのだろう。
ただ静岡市には何らの権限もない。だから、会議のあと、難波市長は「県と一緒に議論したい」と主張した。
そもそもヤマトイワナは保護保全の対象ではなく、漁業種である。リニア担当の自然保護課だけの議論だけではすまない。
人間生活を優先すれば、生物多様性の保全など至難の技である。川勝知事が広げてしまった大風呂敷をたたんでいくのは簡単ではない。
JR東海が「代償措置」を提案することで、返って、議論が袋小路に入り込んでしまう可能性が高い。
小林 一哉
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