麻薬王がのこした「コカイン・カバ」 自然環境に貢献?

 南米コロンビアにすみついたカバが劇的に増えている。環境に良いのか、悪いのか
 南米コロンビアで、「麻薬王」の悪名で知られたパブロ・エスコバル。彼が1993年に銃殺されたとき、コロンビア政府は、同国北西部にあったエスコバルの高級不動産を差し押さえた。敷地内には私設動物園があり、大半の動物はほかへと移されたが、エスコバルが特に気に入っていた4頭のカバだけはそのまま池に放置された。そして今、そのカバは100頭近くまで増えている。


 10年ほど前から、コロンビア政府はカバの個体数を抑える方法を模索している。動物保護の専門家らは政府の方針を支持するが、一方で、カバが有害であるとの直接的な証拠がない限り、数を減らしたり、別の場所へ移したりする必要はないという意見もある。
カバが自然に与える影響
 エスコバルの私設動物園を抜け出したカバもいて、カバはコロンビア最大の川、マグダレナ川をすみかにしている。生息域は徐々に広がっており、正確な個体数はわかっていない。米カリフォルニア大学サンディエゴ校でカバの研究をするジョナサン・シュリン氏は「80〜100頭ほどだと思われる」と話す。
 2年前に比べ、カバの数は数十頭以上増えたようだ。1993年に4頭だったことを考えると、個体数は飛躍的に増加している。「2、30年以内には、数千頭になっている可能性もありますよ」とシュリン氏は話す。
 コロンビア政府にとって、カバは頭の痛い問題だ。環境監督局「コルナーレ」の研究員、デビッド・エチェベリ氏は、本来の生息地がアフリカであるカバは外来種であり、カバがコロンビアの在来種に影響を与えることは間違いないと述べている。
 このまま放置すれば、カワウソやマナティーといったコロンビア在来の動物たちは、カバに取って代わられるだろうと、同氏は考えている。カバは攻撃的でなわばり意識が強く、地元の住民にとっても危険な存在だ(幸いなことに、これまでのところ、カバによる重傷者や死者は出ていない)。
 2009年、頭数管理のために1頭のカバが駆除された。この時は、市民から激しい抗議の声が上がった。このため政府はカバの駆除計画を断念。その後、カバに不妊処置を施すか、飼育施設に入れる方法を探ってきたと、エチェベリ氏は言う。だが、体重1トンを超えるカバをほかの場所に移したり、不妊治療を行ったりするのは難しい。カバは人間に触れられるのを好まないから、作業には危険が伴うし費用も安くない。2018年9月に、若い個体を1頭、動物園に移すことができたが、費用は1500万ペソ(約45万円)と安くはないのだ。
 科学者や保護活動家にとって、最大の関心事は、外来種であるカバがコロンビアの自然環境にどんな影響を与えているかだ。そもそも、本来の生息地であるアフリカでも、カバは自然に影響を及ぼしている。カバは陸上でエサを食べるが、排泄は水の中で行うからだ。つまり、栄養分が陸上から水中へと送り込まれることになる。
 カバがすむ範囲を広げれば、水質は化学的にも変わり、水質の変化に耐えられない魚は水面近くへと追いやられて捕食者に狙われやすくなるなどの影響が出る可能性がある。ほかにも、カバは体が大きいため、泥地を移動するだけでも、水が流れる溝を作り出し、湿地の構造すら変えることもある。
カバで湖のどこが変わる
 カバが環境に与える影響を正確に知るために、シュリン氏はコロンビア教育工科大学のネルソン・アラングレン=リアーニョ氏と協力して、ナショナル ジオグラフィックが支援するプロジェクトに取り組んだ。彼らは、カバがやってくる人工湖と、あまり来ない人工湖とを比べ、生態学的な多様性や環境中の微生物などについて詳しく調査したのだ。
 2020年1月下旬、この研究は学術誌「Ecology」に発表された。それによると、「カバがいる湖は、カバのいない湖とは化学的にも、生物学的にも異なっている」(シュリン氏)ことが分かった。大きな違いを生んだ原因は、カバの排出する糞だ。カバが頻繁に訪れる水場は富栄養化が進む。こうした余分な栄養分が藻類を増殖させ、水中の酸素を減らして水生生物を全滅させる可能性もある。
 シュリン氏らは今後、最近カバがすみついたマグダレナ川の氾濫原にある湖を調べたいとしている。カバが水場に与えている影響はささやかではあっても、軽視すべきではないと、シュリン氏は言う。「カバが比較的少ない今の時点でも、観察可能な違いがあるということは、カバの頭数がもっと増えたら、その影響はもっと大きくなるということです」
絶滅した古代の動物の代わりに?
 ただ、別の見方もある。水場の栄養分が多くなり水中の酸素が乏しくなれば、水中の生態系にも影響を及ぼし、川の中に違った生息環境を作り出して、カバが種の多様性を増加させているとも考えられるからだ。魚の大量死でさえ、腐肉食の動物たちにとっては安定した食料供給源となる可能性もある。
 カバが生息する湖には、一般に藍藻(シアノバクテリア)が多いことが判明している。無脊椎動物や動物プランクトンの量や種類には、カバの影響は現れていない。
 デンマーク、オーフス大学の生物学者、イェンス=クレスチャン・スヴェニング氏は、最悪の事態を想定する必要はないと考えている。2017年に学術誌「Perspectives in Ecology and Conservation」に掲載されたレター論文の中で、スヴェニング氏らは、エスコバルのカバは、同じく南米に導入された幾つかの種と共に、今は絶滅してしまった大型草食動物が提供していた「生態系サービス」に貢献できる可能性があると述べている。
 カバが提供する「生態系サービス」には、陸上の栄養素を水中に集める、湿地の構造を変える、食べることによって草本植物を抑制する、などが挙げられる。
 南米にはかつて、半水生だったと思われるカバに似た動物トクソドンや、水を好むバクなど、たくさんの大型草食動物がいた。ただ、いずれも過去2万年の間に絶滅した動物だ。バクの仲間は、今も数種が生き残ってはいるものの、頭数は減少傾向にある。「カバはそうした絶滅の影響を部分的に回復させ、生物多様性全体に利益をもたらすと考えられます」と、スヴェニング氏は言う。当面カバを放置しつつ、問題が起きないよう監視を続ければよいと、同氏は考えている。
 シュリン氏は、別の可能性も示唆する。かつて南米に生息していた大型哺乳類が植物の種子を拡散していたように、カバも同様の役割を果たす可能性があると指摘する。「カバの糞に、どんなものが含まれているかを調べる予定です」と、シュリン氏は言う。
 だが、数千年以上も放置されてきた役割を、カバが担う可能性があるからといって、カバがこの地域にとって本当に望ましい存在かは不明だ。カバの「再野生化」が進めば、マナティーやカメ、カワウソなどの在来種がどんな影響を受けるかは、誰にもわからないのだ。カバの頭数が増えれば、人間との遭遇も増えてトラブルも起こるだろう。
生き残りの物語
 オーストラリア、シドニー工科大学の生態学者、アリアン・ワラック氏は、絶滅した動物の抜けた穴をカバが完全に埋められるかどうかは重要ではないと断じる。絶滅危惧種であるカバが、アフリカ以外の地で、集団で保護されていることに大きな意味があると、同氏は考えているからだ。「南米に野生のカバがいるという事実が、すばらしい生き残りの物語なのです」
 カバを歓迎しているのは、ワラック氏だけではない。カバには多くのファンがいる。「カバに価値を見出し、ここに留まってほしいと望む地元の人たちがいます」(シュリン氏)。エチェベリ氏も「人を引き付けるカバの魅力と、彼らが非常に有名な動物であるという事実が、事態を複雑にしています」と述べている。
 カバは、観光による利益を呼び込んでくれることは間違いない。エスコバルの私有地を改装したテーマパーク「アシエンダ・ナポレス」には、毎年5万人を超える観光客が訪れるそうだ。
 現在のところ、カバをほかの場所に移動させたり、不妊処置を施したりといった計画はないことから、カバは今後も自然の中で暮らし、数を増やしていくことになるだろう。シュリン氏は、今後もカバがいることの長期的な影響を研究したいと考えている。「これは大規模な実験なのです。その結果は、これから明らかになるでしょう」
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