2018年05月16日

『池の水ぜんぶ抜く』人気の理由 。なぜこんなに心地よいのか

 春から毎月レギュラー化 「池の掻い掘り」の番組が人気である。テレビ東京の『池の水ぜんぶ抜く』だ。

 最初、何も知らずにタイトルだけを聞いたときは、大掛かりな悪戯の番組なのかとおもっしまった。池の水を抜いて、池の底を見て、ほほーと驚いて、それで終わり。田舎の少年だとそういうことをやりかねない。

 違った。

 さすがにテレビ東京でもそういうことはやらない。

 水を抜いて、沈んでいたゴミを捨てて、中にいる生物の仕分けをしている。

 これが人気番組になっている。この春から毎月放送のレギュラー番組になった。

 日本各地のいろんな水を抜いてまわっている。なかなか大変だ。かなり手間ひまをかけた番組である。

 しかし手間をかけたから人気番組にはなったわけではない。そんなことでテレビ人気は取れない。

 なぜ『池の水ぜんぶ抜く』は人気の番組となったのだろうか。

「外来生物排除」がくすぐるもの

 テレビというのは欲望のメディアである。

 民放のおおもとには企業コマーシャルがあり、コマーシャルの目的は、見てる人を刺激し、欲望を喚起するところにある。そしてもともと映像世界は欲望を直裁的に刺激するために作られている。テレビはとても強く「欲望を呼び起こす」メディアである。そのために視聴が基本、無料になっている。

 『池の水ぜんぶ抜く』は、そういう欲望をうまく喚起し、それをきちんと満足させることに成功している。

 まず、「ふだんは見られないもの」を見せてくれる。

 長野の善光寺の池や、小田原城のお濠、日比谷公園内の池、そういうところの水が抜かれた風景というのは、なかなか見ものである。

 ただ、その驚きの映像だけで、人気になっているわけではない。きちんと見てる者を満足させる仕掛けがある。

 それはまず何と言っても「外来生物の排除」だ。

 日本の池にも、日本のもの(在来種)ではない生物がたくさん入り込んでおり、その外来種(もともとは海外のもの)をすべて掻き出して排除してくれるのである。

 なんだか、とてもすっきりする。

 池やお濠に投げ捨てられているゴミが片付けられるのを見るのと同じだ。

 池の生物が「本来、ここにいるもの」と「もともとはいなかったもの」に仕分けられ「もともといなかったもの(外来種)」を排除し、「本来、ここにいるもの」だけの世界に戻す。

 正しいものと正しくないものに分けられ、正しいものだけが残される、という状況は、これは、頭では考えることがあるが、現実ではなかなかそういうことは起こらない。それをきちんと目の前で見せてくれる。ある種の夢の実現である。欲望を刺激して、とても充実感を与えてくれる。

 捕獲した外来種は、本来ならみな殺してしまいそうなものだが、いちおう番組では「そういう外来種をまとめて面倒見てくれている施設」へ送り込んでいる。水族館のようなものらしいが、番組で見る限りは、捨てた生物を引き取ってくれる施設、としか言いようがない。

攘夷思想とそっくり…

 日本古来のものは善いものであり(このまま存在しつづけても良いと認められたものであり)、あとから入ってきたものは悪しきものである(出て行ってもらうことになる)という二分法は、とにかくわかりやすい。

 自分も「日本古来の人間である」と信じられる人にとっては、とても心地いい展開である。

 ただ、この考え方は、かつて「攘夷思想」と呼ばれていたものと同じである。

 夷狄を打ち攘(はら)う。そういう思想。

 どうやら、この考えは鎖国の時代だけのものではなく、我が国に深く根付いているかなり強い土俗感情のようだ。その土俗感情を、うまーくすくい上げたところが、この番組の成功のもとなのだ。

 本来の日本に住むものだけを残し、それ以外を施設に送り込むということを、人間相手にやったら許されるものではないが、相手はカメとか貝とかエビとかコイなので、善いこととされている。

 おそらく当人(というか当カメ、当貝)たちが「国境を越えてしまった」という意識をまったく持っておらず(確認してないが、たぶん持ってないとおもう)、そこを断罪して排除するから、何とかなっているのだろう。

 (彼らが決死の決意で国境を越えてきた、という意識を持っていたら、その抵抗はもっとすごいものになるし、排除側の心の負担が大きくなってしまう。)

勧善懲悪的でもある

 欲望を強く満たしてくれるのは、この「海外のものを取り除く」という部分だけではない。

 「掻い掘り」作業を通して、マナーを守ろう、という意識を強く訴えているところもある。

 つまり「池にゴミやペットを捨てるな」という注意である。

 ミドリガメ(ミシシッピアカミミガメ)やカミツキガメ、ワニガメ、またこの番組で捕獲されることはないがアライグマなど、これらは人がペットとして飼い始め、途中で飼育をやめて野外に捨てたため、野生化して日本に定着した、と言われている。

 これを“悪行”として非難し、警告を与えているのだ。

 人手をかけ、「心ない人がいなければ日本に定着することのなかった(と信じられている)外来種」を掻き出し、排除し、「もとのすばらしい日本らしい池に戻す」という作業を顕示することによって、「勝手にペット放流した人」へ強く抗議している。

 そこが、共感をよぶ。

 「身勝手な行動がこういう手間をかけさせているんだぞ」と示し、それによって、ペットを捨てた人を懲らしめているような気分になる。

 悪を懲らしめ、善を勧めた気持ちになれる。実際はどうであれ、そうおもうことで、すっきりする。

 やはり勧善懲悪はテレビでは人気があるのだ。

 攘夷思想と勧善懲悪をうまく織りこみ、その思想性を声高に叫ぶのではなく、ただひたすら掻い掘りに従事している姿を見せ(公共のために働く姿には圧倒的な説得力がある)、いろんな欲望を満たしてくれるところが、この番組の人気のもとである。

 テレビ東京のすごみは、欲望に対して忠実で貪欲なところにあるとおもう。

神様の気分を味わえる

 また、もうひとつ付け加えるなら、最初にも述べた「自然への干渉」という映像の力も強く、それが魅力になっている。

 まあ、掻い掘りする池や濠というのは、ほんとうの天然自然の池ではなく、人工のもの(もともと自然にあったとしても、人の手を加えたもの)が多いわけだが、水を湛えていて、中に生物が多く生息しているから、やはり自然存在に近い。

 その「自然」を人間の力によってより善きものへと変えている、そのさまを映像で見せるというところが強い力を持っている。

 人の力によって自然を正している気分になれて、とても心地いいですね。

 自然よりも上位に私たちがいて、自然をより善きものにしているようで、気持ちいい。神様の代わりをやっているようで、心地いい。

 *

 攘夷も、勧善懲悪も、神の代わりも、すべて「上に立てる」から心地いいのだ。

 どうも2010年代の思想は「上に立ちたい」というマウンティングの心情がより強く出ているようにおもう。それはインターネットによって支えられ、より「原理主義的な動き」を生み出しているようだ。この「掻い掘り」が、「もともとの日本の姿」を求め原理主義に流れてしまうのも、しかたのないことなのだろう。

 こういう点で『池の水ぜんぶ抜く』はきわめてすぐれた番組だとおもう。

 ただこれが“善行”として評価されるとすると、そこには違和感がある。

 この番組はただ「おもしろい」のであって、「いいことやっている」わけではない。そもそも、人気があるから続くのであって、善いことかどうかは、どうでもいい。つまり、人気が低下すれば(いつか必ず低下する)この大掛かりな作業も終わる。

 そこはあまり勘違いしないほうがいい。

素朴なナショナリズム

 「在来種を守り、外来種を排除する行為」はべつに善行ではない。

 それは落ち着いて考えればわかるはずである。少なくとも「誰が見ても問題なく正しい行為」ではない。観念的にクリーンな世界を作ろうという作業でしかなく、それは「気持ちのいい作業」でしかない。

 みんなが何となくわかっているはずのことを、あえて言葉にしておく。

 外来種の除去(もしくは、ある種の生物の排除)が行われるのは、本来は、自分たちの生活を守るため、のものである。人類の生存の可能性を伸ばすため、そういうことをする。また、外来種を積極的に導入することもあるが、それも自分たちの生活のためである。

 生きていくために行っている。

 それ以外の排除(生活にはあまり関わりのない外来種の排除)は、一種の趣味と言える。つまり、欲望を満たすためのものであり、快楽にすぎない。

 たとえば、食料にするための狩りではなく、「趣味としての狩猟」というものがある。べつだん善行ではない。しかし悪行と決めつけるわけにもいかない。それを是とするか非とするかは各個人、ないしはそれぞれの共同体で決めてもらうしかない。

 「やみくもな外来種の排除」はそれにあたる、と私はおもう。

 生活にかかわりのない外来種が繁栄していようと、われわれサピエンスの生存とは関係ないのなら、放置しておけばいい。生きていくのに精一杯の人は、そうするだろう。

 しかし、「外来種の繁殖によって在来種が圧迫されている、絶滅しそうである」と聞くと、何かしらの危機感を感じてしまう。外来種を排除したくなる。そして実際に排除行動に出たりする。『池の水ぜんぶ抜く』のある部分は、これである。

 これは「在来種だから仲間であり、外来種は敵とみなす」という厳しい思想に基づいているようであり、「日本は日本のものだけで作られていてほしい」という願いが支えになっているようなものである。

 なかなか興味深い試行だが、趣味の行動である。

 ただし各国政府が各国で後押ししているタイプの、趣味の行動である。

 本来は、あまり国を挙げてやるようなことではないだろう。しかし国民の不安(排除欲望)を無視するわけにもいかず、各国も対応している。しかし、目的は欲望の充足で、つまり快感のためで、それでいて狭隘なナショナリズムを刺激する行為である。できるかぎり、ひっそりやったほうがいい。

時間は巻き戻せない

 「地球上の生態は、地球誕生からこのかた、一度たりとも止まったことはなく流動しつづけている」と生態学者は教えてくれる。

 どの瞬間も瞬間でしかない。

 「とてもよかった理想的な生態の時代」というのは存在しない。

 つまり「そこへ戻したほうがいい生態」というのは、現実にはどこにもないのだ。誰かの頭の中にしか存在しない。

 いまここにある生態系が、地球の意志としての生態系である。

 そこをまず認めるしかない。ブラックバスにとっては、日本はとても住みやすい場所なのだ。彼らは安住したい。我々はそれがただ心地悪いだけである。

 ちなみに、在来種がとても少なくなっていて、外来種が繁殖している生態系で、「在来種を守るため外来種だけ排除する」という行動を起こしても、無駄になることが多い。

 在来種が少なくなっているとしたら、彼らはすでに負け始めているのだ。その原因は、多くの場合、外来種ではなく環境変化(だいたい人間が引き起こしたもの)にある。外来種の侵入はその変化後の仕上げにすぎない。

 その生態系の上位にある外来種を完全に取り除いたところで(それができたとして、だけど)、負け始めた在来種が大きく復活する可能性はとても低い。上位層に“新しい別の種”が入ってくるものである。そういう事例がいくつも報告されている。

 簡単にいえば「時間は巻き戻せない」ということに尽きる。

 みなさんご存知のとおりである。

 「美しい過去に戻そう」という行動は、だいたい無駄になるし、いろんな面倒を引き起こしやすい。

 それでもやりたい、というのを止めることはできないが、興味ない人まで巻き込まないほうがいいとおもう。それはまあ、「ゴルフは全人類にとって善である、すべての人はゴルフをやるべきだ」と言ってまわる人くらいには迷惑だから。

 ただ「在来種と外来種に分けて、在来種のみ守りたい」というのは、どうもわれわれの原初的な感情を強く刺激するようだ。なかなか無視しにくい欲望なので、多くの人を巻き込みやすい。

 テレビはそこをうまく利用している。

 だから見ていておもしろい。

 おもしろいなあ、とおもう人と、これは善いことなんじゃないか、と感激する人と、なんだか余計なことをやってるなあ、とおもう人と、それぞれが適当にいるのが、いちばんいい気がする。

 どの考えが正しいということは言えない。

堀井 憲一郎

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Posted by jun at 2018年05月16日 10:31 in 外来生物問題

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